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奥様童話劇場
  〜シンデレラ・上〜

「お母さま。わたしのこと、好き?」
「ええ、世界で2番目に愛していますよ」
「2ばん目?」
「1番は、お父様です」
「お母さまとお父さま、なかよしね!」
「はい、仲良しですね」

 いつもお母様は、仰っていた。
 世界で一番、お父様を愛していると。

「あらあら、まだ掃除も終わってないの?」
 あいつらがこの家に来てから、全てが変わってしまった。
「グズグズしてたら日が暮れてしまいますわ」
 あの女の連れ子が、今日もいつものように、いちゃもんをつけて来る。
 2人の連れ子が、お揃いで腕を組みながら、私を見下ろして来る。
 ああ、なんて意地の悪い顔なのかしら。
「何黙ってんの?」
 妹の方が、私の手を踏みにじる。
 熱い。刺すような感覚に、私は歯を食いしばった。
 さっきまで氷のように冷たい水で雑巾を絞っていたのだ。
 感覚なんか麻痺してしまっていて、痛みなんて分からない。
「無視するつもり?」
 急に視界が歪んで、真っ暗になった。
 山の中で、川の側を歩いている時と同じような音がして、ゴーってして。
 肩が跳ね上がって、そこで固まった。
「キャ! 冷たあー。お姉さま、足に引っかかっちゃったじゃないの!」
「あら、ごめんあそばせ。でも、こいつに洗わせれば良いのではなくって? 服ならいくらでもあるのだから」
 肩を震わせながら髪を掻き揚げると、姉の方が両手で空のバケツを持っているのが見えた。薄ら笑いを浮かべながらバケツを置くと、口元に扇をかざし、こちらを流し見る。
 妹の方も、名案だと言わんばかりの笑みを浮かべ、こちらを見ていた。
 そして、妹の方が近づいて来て、今まで踏みつけていた手から雑巾を奪った。
 前髪を掴まれ、ビショビショになった床に押し倒される。次の瞬間、目の前に雑巾が迫っていて、とっさに口を閉じて力を込めた。
 もう条件反射として対応が出来るくらい、毎日のようにこういう事は繰り返されていた。
「ほら、口を開けなさいよ!」
 カビの臭いが鼻をつき、一瞬息が止まる。
 とにかく必死で、顔を横へ反らす。それでもこの女は、頬を上から押さえつけて、雑巾を口元へ押し付ける。
 しばらく格闘していると、ふと、辺りが暗くなった。
 ランプからの後光で見えないけれど、青いドレスでよく分かる。上の連れ子が、いつの間にかこちらへ回り込んでいたのだ。
 そのまま静かにしゃがむと、私の頭に軽く手を乗せてきた。
(何……?)
 そう思ったのと、鼻を摘まれたのは、ほぼ同時だった。
 すぐに手を振り払おうともがくけれども、徐々に力を込めらて行く頭の手と、いつの間にか馬乗りになっている下の連れ子のせいで、身動きなど取れなかった。
 息苦しさも手伝って、力が入らない。
 頭を押さえつけていた手が退いたかと思えば、今度は右肩を押され、仰向けにされる。
 右肩にあった手が退いたかと思えば、今度は両頬を押され、口を開けさせられた。
 この機会を下が見逃す筈もなく、そのまま雑巾が口の中に押し込まれた。
 カビ臭さに加えて、ほこりの臭いと砂のジャリジャリ感が口の中いっぱいに広がる。
 気持ち悪い……。
 くぐもった声しか漏れず、とにかく暴れた。
「痛いわね! 何すんのよ!」
 赤い筋のついた手で、下の連れ子が前髪を引っ張った。
 ブチッと低い音が耳の中で聞こえた。
 赤い筋のついた手には、ごっそりと抜けた何本もの金糸が絡み付いていた。
 一瞬ギョッとしたが、こんな事でボーっとしている訳にはいかない。
 次の攻撃が来る前に、私は雑巾を吐き出した。
「こいつ……!」
「おやめなさい」
 また掴みかかろうとする妹を、姉がピシャリとやめさせた。
 嫌な予感がする。こいつが、義姉が、いじめを中断する時は、大抵嫌な事が起きる。
「お姉さまは甘いわよ。もっと懲らしめなきゃ。こいつ、どんどん付け上がるわよ」
「お黙り」
 相変わらず冷めた視線で妹を威圧すると、姉は胸元から金の懐中時計を取り出した。
「あと15分でここを片付けて、着替えてらっしゃい」
 何をされる? 時間は15分。出来るだけの備えはしておかなくちゃ。
 でも、何を?
 私はただ、義姉の顔を見つめる事しか出来なかった。
「何ボーっとしてんのよ!」
 また視界が閉ざされる。
 雑巾と同じく、カビとほこりの臭い。それと、床の艶出しに使う油の臭い。
 ああ、モップか。
「さっさとここを片付けなさいよ! い・ま・す・ぐ!」
 下の義姉のヒステリックな金切り声。それ以上に、耳元でギシギシ軋む音の方が耳障りだった。
 軋んでいるのは、床? それとも、骨?
 何でも良い。とにかく、この痛みをどうにかして欲しかった。頭が割れる。
「何すんのよ!」
 ふと、真っ暗だった視界が真っ白になる。
 乾いた音がして、そちらを見てみると、真っ黒に汚れたモップが隣に落ちていた。
 声の方を見てみれば、連れ子の姉妹が、いつの間にか足元の方に立っていた。背を向けているので姉の方は分からないが、妹は真っ赤に腫れ上がった右頬を押さえながら、涙目で姉を睨み付けていた。
「手にかかったわ」
 淡々とそれだけ言うと、義姉は部屋を出て行ってしまった。
 早く、早くしなくては。
 結局、下の義姉がモップでわざわざ時間を潰してくれたお陰で、私は堂々と5分遅れて義姉の寝室へ向かう事となった。
 もう手遅れだけれど、これ以上遅れたらもっと酷い事をされるかも知れない。
 とにかく精一杯、全力で私は走っていた。
 2階の階段横。昔の私の部屋。そこに、義姉はいる。
「遅くってよ」
 謝らなきゃ。
 そう思っても、恐くて息が吐き出されるだけ。
 義姉は座っていたベッドから立ち上がると、黒いショールを羽織った。
「行きましょうか」
 優雅に微笑むと、私の腕を軽く掴み、歩みを進める。
 私は、足が縺れながらも、大人しく後をついて行くしかなかった。

「寒いわね」
 土色になった枯葉が風で舞っている。一面に葉を落としたハシバミの木は、丸裸になった枝を鉛色の空いっぱいに伸ばしている。
「今夜は雪かしら、ね」
 義姉がそう言って振り返ると、首を傾げながら語りかけてきた。
 こいつが、何の悪意もない表情をしている時は必ず嫌な事が起きる。
 今度は何だろう。この風の中、掃き掃除をさせられる? 雪が降ってきたら、雪掻きだろうか?
 ふと、落ち葉を燃やした後の灰の山が目に入った。
 ここの掃除をさせられるのかも知れない。これだけの量なら、終わる頃には全身真っ黒だ。
 そこまで考えを巡らすと、私は義姉の顔を見た。
 義姉も私の顔を見て、口角を吊り上げた。
「これね……」
 そう言いながら、先のように時間を計るのに使った金の懐中時計を胸元から取り出す。
「あなたのお父様から頂いた物なの」
 同じく金の鎖の部分を持ち、手から離された時計本体は、空中で上下して、しばらく回転した後、止まった。
「でもね」
 また胸元に手をやり、首から下げられた、更に小振りな錫製の懐中時計を、もう片方の手でかざした。
「まだ小さい頃、もう私のお父様から貰ったから」
 血の気のない手から、金の鎖が離される。
「いらないわ」
 灰の山に金の懐中時計が埋もれた。
 弾かれたように。今の私は、そういう風に見えるだろうか。
 何を感じて? そんなの分からない。
 私には、これしかない。これしか、残されてはいないのだ。
 灰に埋もれても、懐中時計は眩しいほどに輝いていて。
 手も、顔も、スカートも、真っ黒。
 だから、何?
 私には、これしか、お父様しか――。
「あなたのお父様は、最後にいつ、帰って来たかしら?」
 感情の見えない、碧眼。義姉は相変わらず、口元を吊り上げたままだ。
「お母様、顔はまあまあなのだけれど、性格がちょっと、ね」
 扇を口元へやりながら、クスクス笑い出す。
「嫌にもなるかもね」
 何が言いたいの?
「あなたは、考えた事ない? どうして、お義父様は最近、会いに来て下さらないのか。って」
 顔が、熱い。
 何を言っているの? そんなの決まってるじゃない。あなた達が増えた分だけ、稼がなきゃいけないからよ。余計な分だけ、この裕福な生活を続けるために、働かなくちゃいけないから。
「あの人ね、若い娼婦の家に泊まっているんですって」
 嘘。
「私より5つ上らしいわ。赤毛の、可愛らしい」
 義姉は全く表情を変えずに、黒のショールを私の目元へ当てて来た。
「離縁するのも時間の問題ね。ま、また次のカモを引っ掛ければ良いだけの事だけれど」
 そっと、頬を指でなぞられた。血が通っていないのではないのかと思うほど体温のない指は、黒く汚れていた。
 この人と会って初めてだろうか? この人の、こんなに無垢な笑顔を見たのは。
「灰被りね」
 笑いを帯びて、微かに震える声。それがあまりにも、嬉しそうだった。
 目から零れるそれが、頬にいくつもの筋を作り、首に服に黒い染みを作っていく。
 意地だの恥だの、関係なかった。
 それは、悲鳴だろうか? 唸り声だろうか?
 今の私には、泣き叫ぶ事しか出来ないのだから。
「何だい、獣みたいな声を出して!」
 やたら耳につく甲高い声。少し肥えた婦人が、下の義姉を連れて近付いて来る。
「はっ、何て小汚いんだ! あんた、さっさと洗い物を済ませちまいな! それまで夕飯抜きだからね!」
 鼻先から見下ろしてそう言うと、今度は態度をガラッと変えて、上の義姉に近付く。
「こんな所にいたら風邪をひいちゃうわよ。さ、今夜は舞踏会なんだから、そろそろおめかしして」
「はい、お母様」
 脳天から出していると思われるキンキン声で、耳が痛む。
 先程まで、厚塗りの白粉で口元に皺が出来るほどの笑みを浮かべていたにも関わらず、今度は、眉間に皺を寄せて私を見下ろしている。
「あんたはここに残るんだ! こんな薄汚い小娘、王子様の目なんかに触れさせたら刑罰にかけられちまうよ!」
「そうそう。こんなのが妹だって知れたら、我が家の恥だもの」
 母親に賛同するように、下の義姉がケラケラ笑い立てる。
「良いかい? これは一世一代の大チャンスだよ! 何としても、どっちかが王子様の目に留まるようにするんだ。上手く嫁になれれば、あたしらは王族さ!」
 すぐに興味を失ったのか、私の事など忘れたかのように3人は話し込んでいる。
 いや、上の義姉だけは、あの人だけは、たまにこちらを見ては、薄っすら笑みを浮かべている。
「それじゃ、あなたは良い子にしていてね」
 そして、小さく手を振って、義姉は2人の後に続いて行った。

 あの人達と別れたら、お父様はその娼婦と結婚するのかしら?
 そして、またこんな生活が続くのかしら?
 お父様は、何とも思わないの? 私が、こんな目に合わされていても。
 可哀想とも、思わないの? 私には、もうお父様しかいないのに。
 違う。私には、何もなかったのだ。お母様がいなくなってから、何も残ってはいなかったのだ。
 真っ黒になった手の上に、白い粉が舞い落ちる。
 凍えきって紫に変色している手だ。融ける事なく、また白い粉が乗る。
 ハシバミの枝が、風の音を立てて揺れた。
 何かが、私の中で何かが、音を立てて崩れ落ちた。
 多分、この木の筈だ。この、ハシバミの木。お母様が言っていた、ハシバミの木。
 いつもこの木が、私を見守っていてくれると。
 舞踏会に、行きたい。そう、願った。

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