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おしょーさん
CLASS10:空、灰色

 穏やかな日だった。気持ち悪いくらいに。

「大変だったわねえ」
 障子の向こうから、今日一日だけで何度も聞いた台詞が聞こえてくる。
「まあ、でもある程度は予想できたことだしねえ……」
 そして、今日だけで何回も繰り返されたパターンの会話が交わされた。
 2人が暮らすには少々大きすぎる日本家屋だ。いつもはひっそりとしているのに、今日ばかりは人で賑わっていた。
「あっくん、折ったよぉー?」
「あ、折れた? じゃあ、ここを広げて……」
 その片隅で、俺は親戚の子どもの面倒を見ていた。
 黒のワンピースを着たその子は、畳の上で茶色の折り紙と格闘している。
「ずれちゃうよ?」
「ん? ちょっとかしてみな」
 ダイヤ型になった折り紙の端を慎重に開いていく。
「そういえば、なんで茶色なの? ピンクとかあるのに」
 真新しい22色入りのパッケージを見ながら訊いてみれば、その子の大きな目がほんの少しだけ細められた。
「おじいちゃんが好きな色だから」
「おじいちゃんが?」
「そう。これね、一緒に入れてもらうの」
 改めて、折り目が微妙にずれている茶色の折り紙を見つめる。
「あっくん?」
「好きな色、あったんだ……」

 バカ陽気だった。季節はずれの。

『おじいちゃんのどこがそんなに良いの?』
 新聞を広げたまま眠ってしまった祖父を見て、思わず零してしまった。
 祖母は、一瞬だけ皺だらけのまぶたを大きく開いて、またいつもの笑顔に戻っていた。
『可愛いじゃない、案外』
 そのまま、笑顔を絶やすことなく、隅に折りたたんであった毛布を祖父にかける。
『どこが……』
 俺はといえば、あと2かけになったミカンを片付けているところで。
『おじいちゃんとは、学生時代からの付き合いだからね。分かるのよ、色々と』

 そう話す祖母の表情は、本当に穏やかだったから。熟年離婚はまずないな。なんて、そんなことを思っていた。
 それにしても、祖母の台詞はとにかく理解できない。
 まず、祖父にそんな言葉は似合わない。絶対に。
『なんだ、家庭科が3じゃないか』
 まずは、何かにつけて文句をつけなければ気の済まない人だった。
『でも、他は4と5ですよ? 主要教科なんて全部5じゃないですか』
『ふん……』
 祖母のフォローが入っても、祖父の興味はそれ以上続きはしなかった。

 そうだ、俺は祖父がまともに笑ったところすら見たことがなかったんだ。
『おかゆ? そんなの作ったことないよ? 俺』
――ご飯に水入れて煮込めば良いんだ。つべこべ言わずこっちに来い。
『自分で作れば良いだろ』
――ばあさんが熱出したんだ。
『答えになってないって』
 いきなり電話をして来たかと思えば、こちらの都合などお構いなしだ。
 母も仕事だし、祖母のことも気になるし、自転車で10分程度だし。行かなくちゃいけないんだろうけど、釈然としない。
『ご飯にかぶさるくらいの水を入れて、水がなくなるまで弱火っと』
 結局、祖母から作り方を教わって鍋に火をかける。
 当の祖父はといえば、畳に新聞を開きながらこたつで寝そべっている。
『ちょっと、鮭買ってくるから。火を見ててよ』
『料理は出来んぞ』
『水がなくなったら火を止めるだけで良いんだよ。出来たら、よそっておばあちゃんに出してくれると助かるな。おかずは冷蔵庫にあるし』
『なんで鮭なんか買いに行くんだ』
『おばあちゃんに頼まれたから。鮭はおじいちゃんの好物で、今日は魚が安い曜日だから。買ってきて焼いて、食べさせてやってくれって、頼まれたんだよ』
 そこまで言うと、祖父は不機嫌そうに黙ってしまった。
『だいたいさ、ご飯よそるくらい自分でしなよ。最悪、自分1人だけで生活しなくちゃいけなくなったときにどうするの』
『縁起でもないこと言うなよ』
『でも、ありえない話ではないだろ? 最低限、自分で自分の食べ物を確保するぐらい出来なきゃ。おばあちゃんに対してフェアじゃないし』

 そんな話をしていたのが、ちょうど去年のこの時期だ。
 けど、人生は言ったとおりにいくわけでもない。それから半年もしない内に、祖父にガン宣告がされた。
『ばあさんはどこに行ってるんだ』
『買い物。今日は夕市なんだって』
 胃の調子が悪いから、病院で検査を受けた。その時には、あちこちに転移が始まっていて、手の施しようがなかった。
『もう2時間は経ってるだろう』
『そう言えば、そうだね』
『何やってるんだ。この寒いときに』
 暦の上では、秋になりたての頃だった。昼間はまだ暑いけれど、夕方になると一気に冷える。
『どっか暖かいところでお茶してるんじゃない? いつもおじいちゃんの看病でつきっきりなんだからさ。ちょっとくらい良いじゃないか』
 どうせ手がつけられないのだからと、祖父は全ての治療を断って家で過ごしていた。当然、弱るのも速いわけで、3ヶ月もしない内に寝たきりになっていた。
『ただいまー。ゲットして来たわよ。獅子屋の水ようかん』
 いつもどおり、多少険悪な空気が流れ始めたところで、祖母が帰ってきた。
『獅子屋って、この時間だと並んだんじゃない?』
 結構、近所で有名な老舗だ。夕方頃になると、店の外で順番待ちをしている客を良く見る。
『あそこの美味しいじゃない。水ようかんなら、おじいちゃんの大好物だし』
『食欲がないんだ。お前らで食え』
 せっかく、自分のために寒い中買ってきてくれたと言うのに。何か言ってやろう。口を開きかけたそのとき。
『お前の好物を買って来い。食欲があったら、少し分けてもらうから』
 病気は人を気弱にさせるって、よく言うけれど。その時だけ、あの意地っ張りが見る影もなくなっていた。

「でーきた!」
 30分かけた力作を、親戚の子は自慢げに掲げる。
「上手くできたね」
 微妙に角がずれているが、とりあえず褒めておく。
「あっくん! これなら千羽鶴も作れるかな?」
「どうかなー。お葬式は明後日だし」
 そんな物を棺に入れるつもりだったのか? こいつは。
「あら? 2人で何してるのかなー?」
 さっきまで客の相手をしていた祖母が、部屋に入ってくる。
「鶴折ってたのー!」
「あら、上手ねー」
 そう言って、祖母は大袈裟に手を叩く。
「何か探し物?」
「一緒に棺に入れる物をねー。眼鏡はやめた方が良いって言われちゃって」
 ガラス、金属、プラスチック類は入れられないと、前もって説明されたような気がするのだが。
 さっきまで忙しなく動き回っていたのが嘘のように、祖母はのんびりと押入れを物色し始めた。
 外に出されたのは、少しかび臭いダンボールが4つほど。他はタオルケットなどで、それはまた押入れに戻された。
「どんなガラクタが入ってるのかしら〜」
 待て。自分で整理しておいてガラクタか……?
「あら、アルバムだわ」
 それも、ダンボール全てに入るほどの量だ。色とりどりのくすんだハードカバーが、小さくホコリを立てながら出されていく。
「ぜんぶシロクロだねー」
 明らかに、衛生的にどうなんだ? と、いうような汚れ具合のそれを、親戚の子どもは恐れる事もなく開いていく。
 ところどころ染みになった写真は、その子の言うとおりモノクロだった。女子は三つ編みか1つ縛り、男子は坊主か七三分けばかりだ。
「これ、おばあちゃんの若い頃の写真?」
「そうよー。これが私で、こっちがおじいちゃん。おじいちゃんカッコいいでしょー」
 祖母は、とても自慢げに祖父の写真を見せてくる。
「お父さんはおじいちゃんに似なかったんだけどね。あっくんは似てくれて本当に良かったわー。なかなか男前でしょ?」
 とても嬉しそうに、自慢を続ける。
「おばあちゃんは、おじいちゃんのどこがそんなに好きなの?」
 だからだろうか、いつかの質問を繰り返していた。
「だって、意地っ張りだし。笑わないし。全然やさしくないし。趣味らしい趣味なんてない、つまらない人だったし」
 似ているといわれて、照れとか嬉しさよりも、少しの嫌悪感しか感じないような人なのに。
「おばあちゃんばっか、損してなかった?」
 あの時のように、祖母は目を丸くして俺の話を聞いていた。
「そうねえ……」
 そして、あの時のように、目元の皺をさらに深くして微笑んだ。
「損をした。とは、思ったことはないわね」
 それは、あの時のように、気持ち悪いバカ陽気の日で。
「やさしいのは、分かってるから。意地っ張りなところは可愛く見えたし。何よりも……」
 一年で一番寒い月のはずなのに、空は霞がかった春そのもので。
「弱みを握って、揚げ足を取って、とことん困らせた時のあの人の顔が、とても可愛くてね」
「は?」
 思わず、間抜けな声が俺の咽から漏れていた。親戚の子はといえば、言葉の意味が分からなかったのか、目を丸くして首を傾げている。
「あ、もちろん反応も本当に可愛いのよ。もう、見事なうろたえっぷりで」
 そんな俺たちの反応など丸きり無視し、祖母は惚気続ける。
「本当、あんなに苛めがいのある人はなかなかいないわ」
 トドメとばかりに、老人にしては可愛い満面の笑みを浮かべた。
「だからね、あっくんも結婚相手は、顔や性格どうのこうのよりも、フィーリングで感じたままに決めた方が良いわよ」
「……うん」
 どこかの誰かに途轍もなく似ている気がするのだけど、全く分からない。
 俺にしては珍しく、放心しかけているところで障子が開かれた。
「彰くんありがとねー。面倒見てくれて助かったわ」
 いとこだった。
「ママー! 見て見て、つる折ったのー!」
「あら、それどころじゃなかったわ。何か燃やせる物……」
 うん。思い出せないものは仕方がない。
「俺も手伝うよ。おばあちゃん」
 俺は、一連の会話について考えるのを放棄することにした。
「ありがとね。……あら?」
 ずいぶん奥から引っ張り出されたのは、真っ黒なトランクだった。最近のだろうか、形も新しい。
「おじいちゃんの愛用品だわ。何か入ってるかしらー」
 燃やす物を求めて、祖母は止め具に手を伸ばした。
「……」
 トランクを開けた瞬間から広がった、沈黙。
「わあ、きれいー!」
 唯一、親戚の子だけははしゃいでいるが。
 それでもなお、俺たちは言葉を発する気にはなれない。
 メイドにナース、スッチー、チャイナドレス、猫耳、うさ耳は別に……良くもないが、ひとまず置いておく。
「……何これ」
 当然の反応だった。その中から、大きめの女性下着が出てくれば。
「チャイナドレスだー!」
 横で飛び跳ねる子どもなど気にしていられない。
 俺といとこの視線が、祖母の方へと行くのも当然のことで……。
「言っておくけど、私のじゃないからね」
 ピシャリと言われ、考えはもうそっちの方向しかない。
「最後の最後でやってくれるわね……。仕事が趣味だとばかり思っていたのに」
 祖母の声は、こんなにも低かっただろうか。
「“あの”恥さらしを、さっさと生ゴミと一緒に燃やしてしまいなさい」
 「“この”ではなくて“あの”ですか?」なんて、訊けるわけがなかった。

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